スポーツ

2013年7月 9日 (火)

アクロバティックな始球式

再生が制限されているため、こちらでご覧ください。



2013年4月 1日 (月)

祝! 長嶋茂雄氏の国民栄誉賞内定

長嶋茂雄氏と松井秀喜氏のダブル国民栄誉賞が内定したそうです。
 
遅きに失した感がありますし、なぜ今なのか、なぜ松井元選手とセットなのか、「痔見ん党」の人気取りではないか、などと取りざたされていますが、いいではありませんか。
 
長嶋茂雄氏の奇妙な言動はつとに有名ですが、これを機会に私が5年前に某SNSに書いた「長嶋語録」の日記を紹介しておきます。
 

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長島茂雄氏の伝説的語録をいくつか紹介します。 この中には皆さんご存知のものもあると思います。
 
 
はじめに断っておきますが、これは決して長嶋氏を侮蔑するとか誹謗中傷するとかということではありません。長嶋氏の天才的な天真爛漫さを紹介したいがためです。
これらは私がTVや新聞で実際に見聞きした事項に加えて、ネットからめぼしいものを拾って集大成したものです。
 
発言が何時のもの(幼少、学生、選手、監督、引退後)かは明確にはわかりません。
本当にそうなのか?のものもありますが、長嶋さんなら妙に納得してしまいます。
Mr. Been 顔負けです。
 
 
★長文です:公衆の面前での閲覧注意★
 
<間投詞、修飾語句、接続詞の多用>
 
「うーん」、「ええ」、「いわゆる」、「ひとつの」、「ややもすると」
 
<二重表現>
 
「1年目のルーキー」、「今年初めての開幕戦」、「体験を経験」、「疲労からくる疲れ」、
「秋の秋季キャンプ」、「始まりのスタート」、「バースデー誕生日」、「ブルーな青空」
 
<外来語の誤用>
 
・ 'THE' を「てへ」と読み、'ONE' を「オネ」と読む。
 ちなみに息子一茂氏は 'THE' を「とへ」 。
・ 'I live in TOKYOを過去形にしろ、という問題の答えが、I live in EDO。
・ レストランで鶏肉を頼むとき「アイム チキン」。
・ キャンプでアメリカに行った時。
 「こっちの子は英語がうまいなあ」、「こっちは、外車ばかりだねえ。さすがアメリカだ」。
・ コンパニオンの妻とのデートを報道陣に追い回され、
 「いいかげんにしてよ。僕にだってデモクラシーがあるんだ」。
・ 外人に会ったときの挨拶は 'See you again'。
・ 「サバって漢字でどう書くんだっけ?」「そうか、魚へんにブルーか」
・ 失敗は成功のマザー
・ 肉離れになったとき「ミートグッバイ」
・ 風邪引きが多いという話に、「インフレが流行ってるからな、インフレインフレ」
・ イアン・ソープに年齢を聞いた時、「ハウ オールド いくつ?」と聞いた。
 
<迷言>
 

・ 「スモウに負けて試合に勝った、ということでしょうか」
・ 監督復帰の年。「ボクは12年間漏電していたんですよ」
・ 一茂の小学校の卒業式で式辞をつとめるも、あまりの長さに途中で壇上から降りるように言われ、 「時間がないんですか?それじゃ、続きはまた来年」
・ 野球の解説に出て「この試合じゃ、一点でも多く取った方が勝ちでしょう」
・ 遅刻の言い訳 「いやー電車が行き先を間違えちゃって」
・ 「鳴かぬなら俺が鳴こうホトトギス」
・ 「勝負は最後まで分からない!ネバーギブアップしてはいけない!」
 
<誕生日に関して>
 

※補足:長嶋茂雄氏の誕生日は2/20 (キャンプ中の時期。公式戦はまだ始まっていません)
・ (キャンプ中に記者団から誕生日ケーキを贈られて)
 「あれー?そう言えば俺の誕生日は毎年、何故かキャンプの時期だなぁ・・・」
・ バースデーアーチを打った選手を祝福「凄いなあ、俺は今まで一度も打った事がないよ」
・ はじめての還暦を迎えまして・・・、ましてや年男と言うこともありまして・・・
・ 今度還暦を迎えるまで監督を続けます。
・ ファン「長嶋さんと誕生日同じなんですよ」、
 長嶋氏「へー、で貴方の誕生日はいつなんですか?」
 
<天心爛漫>
 
・ ふぐ刺しをまとめて半皿一口でペロリ、周りの選手あぜん。
・ ホテルに泊まるとき、職業欄には「長島茂雄」
・ スピード違反で警察の職務質問にも職業「長嶋茂雄」
・ 切符を持たずに電車に乗る。改札で「どうも!長嶋です!」
・ 本人曰く、出身学部は「立教の野球部」
 
・ 後輩に1万円札を渡してジュースを買いに行かせる。
 おつりが渡されると、「え?おつりがあるの?」
・ 副賞の100万円を貰って「まあ、2,3回くらいは食事に行けるでしょう」
・ 他人の100円玉を持ち帰り、後日「ごめん、俺の100円玉によく似ていたから」
 
<物忘れ>
 

・ 徳光和夫を見て、「んーどなた様でしたっけ?」。徳光和夫寝込む。
・ お笑いの「はなわ」に対して、「佐賀君の出身はどこなの?」
・ 試合前「靴下がない!」と大騒ぎ、周りの選手も大騒ぎ。
 「ごめん、あった」片方の足に二枚履いていたのだ。
・ 試合後「車の鍵がない」と大騒ぎ、周りの選手も大騒ぎ。
 「ごめん。今日は、新聞社の方の車に乗せてきてもらったんだ」。
・ 試合後「車の鍵がない」と大騒ぎ、周りの選手も大騒ぎ。
 「ごめん。今日は、電車で来たんだ」。
・息子一茂を試合に連れて行って、帰りに忘れてきた。
 
<逸話>
 
・ 新人の年、一塁ベースを踏み忘れ、ホームランがピッチャーゴロに。
 3割30本30盗塁を逃す。
・ 空振りでヘルメットを豪快に飛ばす練習をしていた。
・ スランプの年、敵チーム国鉄の砂押監督宅へ行き夜中に直接指導を受ける。
 見事スランプから脱出、翌日の試合で国鉄からホームランを打つ。
・ (完全試合目前の)槙原を含む選手らに
 「いいか、槙原が緊張しないようにパーフェクトと言ってはだめだぞ」と声をかける。
・ バントの格好をしながら審判に代打を告げる「バント!土井!」。
 作戦が相手ベンチに見抜かれバント失敗。
・ 「ゴルフ場はこの道の右側にあるんだ」、しかし見つからず。
 途中で「左側だった」と思いだし道をUターン。
 しかし今度も左側を探し続けたためゴルフ場にはたどり着けず。
 
<番外>
 
・ 王さん曰く「長嶋さんは宇宙人」
・ セコムのCMやってるのに泥棒に入られる。翌日セコムの株価大暴落。
・ 血圧降下の効果を強調した健康飲料(アミールS)のCMやってるのに卒中になる。
 
一冊の本が出来そうです。

2012年8月21日 (火)

なぜ三振が "K"?

オリンピックの陰に隠れた感がしますが、今年も甲子園が熱いですね。

特に、ドクターKと呼ばれた桐光学園(神奈川)の松井裕樹投手

準々決勝で涙をのみましたが、通算68奪三振は板東英二(徳島商)、斎藤佑樹(早実)に次ぐ歴代3位とは立派です。
 
このまま決勝まで勝ち進んだら、板東英二の83個を抜いて新記録確実と思われていたので残念でなりません。
 
 
ところで、野球では三振のことをスコアブックでは""という記号で表していますが、なんで"K"なんでしょうか?

私はあの長嶋が巨人に入団する前から野球が好きで、スコアブックの付け方も知っていましたが、子供の頃は不思議でなりませんでした。
 
 
スコアブック上で三振を"K"と表記する理由は諸説あり、
三振の英語である "Strike Out" の""を採ったとする説が最も有力です。

これは、頭文字の"S"や"SO"をそのまま表記してしまうと、「Sacrifice(犠打)」や「Steal(盗塁)」、「StealOut(盗塁死)」と重複しまうからだと言われています。

他に、ルールブック編集者がアウトにする方法を適当に箇条書きした上で、アルファベットを一文字づつ振っていき、三振のところに"K"が振られたのが、「三振="K"」の理由とする説もあるようです。
 
 
それでは、ヒット(安打)はどのように表記するのでしょうか?

ヒット(安打)は、"/"なのです。

スコアブックの付け方にはいろいろな方法がありますが、
詳しくはこのサイトを参照してください。

野球が好きな方なら、スコアブックを付けながら観戦するのも面白いですよ。

2011年11月30日 (水)

43年ぶりに再会した「東京の名花」~ベラ・チャスラフスカ

始めに言い訳:
TVで見たので、再会とは言えませんが・・・

東京オリンピック(1964)で、女子体操個人総合、平均台、跳馬で金メダルに輝いたベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア・現チェコ)は、その端正で気品をあわせもつ美貌と優雅でダイナミックな演技で日本中を魅了し、「東京の名花」と呼ばれました。当時高校1年生だった私でも彼女の美貌とすばらしい演技にほれぼれしたものです。団塊の世代の皆さんなら強烈な印象を受けたことと思います。

・東京オリンピックでのベラ・チャスラフスカ(ネットより転載)

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1968年1月、チェコスロバキア共産党第1書記にドプチェクが就任してから、自由化運動いわゆる「プラハの春」が始まりました。そして6月に自由化の決議書である「二千語宣言」が出され、チャスラフスカも署名しました。これが後に彼女が苦境に陥れられる原因となったのです。

その年の8月20日、旧ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍による軍事介入により、束の間の「プラハの春」は終焉を迎えました。その後、チェコスロバキアの自由化を徹底的に破壊するために、チャスラフスカは危険分子として政府にマークされるようになります。彼女は危険を避けるために森に隠れ密かに練習を続けたそうです。

ギリギリになってメキシコ・オリンピック(1968)への出場が許可されましたが、精神・身体とも極限の状態での出場でした。彼女は、旧ソ連の非人道的行為に対する抗議の気持ちを示すため、「黒のレオタード」でオリンピックを戦ったのです。

彼女は、微妙な判定で旧ソ連のクチンスカヤ選手と金メダルを分け合った床の表彰台で、旧ソ連の赤い国旗から目を背け、クチンスカヤ選手の横でじっと立ち、無言の抗議をします。印象的な姿でした。

その時のチャスラフスカ選手の気持ちは、我々平和ぼけの日本人にはとうていわからない世界でしょう。その後チェコ当局から何度も「二千語宣言」の署名撤回を求められますが、彼女は頑として拒否し続けました。本来は政治的主張の強い人ではなかったといいますが、自らの信念に正直であり、苦境にあってもその姿勢を貫き通したのです。
このため、何年も満足な職に就くことができない状態が続きました。また、この間、夫とも別れています。

・・・

1989年、チェコは「ビロード革命」によって共産党体制が崩壊し、チャスラフスカは復権し、大統領顧問やチェコオリンピック委員会委員長を務めることになります。
しかしその後、息子が起こした思わぬ事件で精神を病むことになります。

そして・・・

先月のことですが、録画していたBS放送「岩崎宏美 プラハに歌う~35年目の挑戦~」を見ていたら、コンサート終了後のインタビューにチャスラフスカが話していたのです。とても懐かしく思いましたが、~1964年はチェコ人女性がチェコと日本の橋渡しをしたが、今回は日本の女性が橋渡しをした~という言葉に感銘しました。元気になられて良かった!

メキシコオリンピックから43年。
あたかも、43年ぶりに同窓会で初恋の女性に出会ったような感じを受けました。


これも最近知ったことですが、2010年秋に旭日中綬章を受章したそうです。やはり物理年齢(69歳)を感じさせますが、その気品は失われていません。

Photo

チャスラフスカの引退後から、女子体操界はより若年で小柄な選手たちによるアクロバット的な演技が主流となり、あまり見る気もしなくなりました。チャスラフスカ時代の体操が一番良かったなあ。

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